ハチナナハチハチ

サンジューがきみにやってくる。世代(87、88)きっかけウェブマガジン。あたりまえを、おもしろおかしく

言葉は誰の為にあるのか、考えたことはあるか。

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("言葉"だって他人から視られている)


自分の"言葉遣い"のせいで、損をする瞬間というのがある。単純に相手の機嫌を損ねたり、節度を知らない無礼者と思われたり、言葉は思っている以上に、人間にとって取り外しのきかない"一部"である。その事実に気付くのは、人生のどのタイミングなのだろうか。
 
 
よくよく観察してみると、言葉遣いの良し悪しが知らないだけの人が多数ではないだろうか。また"自分が言葉の良し悪しを知らない"こと自体も知らない人だっている。それはある意味、悲劇だ。


ぼくは24歳の若造ではあるけど、自分より年下の人と接すると、それをヒシヒシと感じるときがある。あぁ、言葉を知らないんだなって。勿体ないなぁと。「その言葉遣い間違ってるよ」と指摘されない環境に身を投じていて、指摘してくれる人が周りにいないんだなって思ってしまう。それは哀しいことだ。


ぼくは、バーテンダーという"サービス""接客"を比較的厳かな場所で、仕事を通じて言葉に対しては揉まれてきた。もちろん、まだまだ甘いところはあるだろうが、少なくとも自分の言葉遣いには敏感ではいる。
 
 
言葉は反射だろうから、普段の慣れ親しんでいるものが出やすいだろう。だが、普段付き合う人の関係性でしか成立しない言葉を、同様に新たな関係性にも振りかざす。それでは通用しないことを知る必要性はある。


その人自身のパーソナリティ(人柄)だったり、能力がどんなに優れていても、言葉遣いひとつで、相手が自分を判断してしまうことも多いはずだ。言葉遣いを間違えたが為に、心のシャッターを降ろす人だって少なくない


どちらかと言うとぼくは言葉に敏感なので(大学でも日本語学科でもあったからか)、自分に対しても他人に対しても、言葉遣いが汚いだけで厭になってしまう事は多い。それはぼくの小ささかもしれないが、そういう風に言葉だけで自分自身の判断が下される事態があることを知っておく価値はある。
 

自分の言葉が相手にどう突き刺さってるのか?いま一度考え直してみるもいいかもしれない。そして、その相手は一人二人でなく、自分に関わるすべての人に投げかけた言葉を記憶から探ってみるのだ。


恋人に対して。友達に対して。先輩・上司に対して。後輩・部下に対して。家族に対して。関係性は多様だろうし、言葉の受け取り方はひとそれぞれだろう。相手を想った、相手の為の言葉遣いは果たしてできていたのだろうか。ぼく自身もよく考えることだ。
 

言葉にはとてもつもなく力がある。良くも悪くも。


言葉は、おのれの口から放った瞬間に種として植えられ、相手が受け取った時点で感情として芽生え育っていく。最終的には、その言葉から相手との間にどんな関係性の花が咲くかは、その言葉ひとつ次第だろう。よい花が咲くよう、よい言葉の種蒔きをしたいものだ。


誰のための言葉で、どんな関係を育てたいのか。ある意味、人は誰しも言葉の「いきものがかり」なのかもしれない。


オオミジャショウゴ
 
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