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ぼくは、仮面ライダーを観て、そだった。

昭和ライダーを観ていると、大人になったいまでも、心躍る。変身ポーズも、昭和と平成の大きな違いがあって、それはダイナミズムにあるのかもしれない。昔は、ことごとく全身を使ってみての大振りなんだよな。全力投球感があるというか。エネルギーの全てを、悪党退治に注いでいる、そんなひたむきさも感じる。

それに比べて、平成ライダーの変身は、簡素で、効率化されていて、泥くささはなく澄ましてて、商業化されてて、仮面ライダーで夢を見れなくなっちゃったんじゃないかと思う。

ぼくは当時、相当のめり込んでいたし、変身ベルトがあろうがなかろうが、ポージングして、ライダーごっこして、ずさんな物語に一喜一憂して、悪の組織とたたかい、正義を守ることが自分の日々の使命だと勝手に思うくらい、イッっちゃてた(笑)。ちゃんと没頭してたんだ。

いやね、ストーリーとかそういったものを平成のほうが磨かれてるんだけど、その分、なにか大事なものを無くしてしまったような。そんな気がする。

ベルトやカードのような“物”がなければヒーローにはなれない、という勘違いを生みだしてしまってやいないか。それは、 ”持たざる”人よりも“持てる”人がえらくなれる(なりやすい)といような格差社会を悪意をもって反映してしまっているようにも見える。

今の子どもの仮面ライダーとの向きあい方を、自分の甥っ子たちも含めて、自分なりに観察してみてるのだけど、残念ながら、なにも“無いところ”からヒーローは生まれない、と思っている節がある。

心だけで感じるヒーローは、今の時代にはもういなくなってしまったのかもしれない。想像力が乏しくなったと言われてもしかたがないか。見えるもの、触れられるものしか信じれれないとなるとね。

ぼくがギリギリ昭和生まれでよかったなぁ、と思えるのは、仮面ライダーというヒーローの存在が頭の片隅にあるからだろう。なにも無くても、心がさびしくなければ、ヒーローになれる、夢は見れるよ、と教えてもらった。

それが一種の力になっているし、どんなに変化がこれからやってこようが、なんとかやれそうだ、というバイタリティを培ってくれていると思う。彼らを追いかけた時間と熱量は、ぼくの血となり肉となり、昭和の“ふるきよき”を体内に記憶してくれていると信じたい。

仮面ライダーなんぞで時代を語れるわけではないかもしれないけど、ガキンチョだったあの頃、ぼくにとっては時代のすべてであって、あれがあって今がある、と、どこか自分のルーツを辿るために無視なんてできない。

ぼくと同じように、昭和の仮面ライダーを観てそだってきた人は、振り返ってみてほしい。あの時、あなたは、テレビ画面の向こう側にいるヒーローになにを求めていたのだろうか。

もしかしたら、阿呆なガキだったからたいした意味も見いだせてなかっただろうけど、今ならそれができるし、その自分の胸に沸き起こった感情や、そこから生じた現象なんかを辿ってみると、おもしろいかもしれない。ノスタルジーだけじゃないなにかがみつかるといいですね。



ちなみに、20歳を超えたあたりになってやっと、ライダーマンの、不完全なフォルムの魅力に気づけました。しぶい。

0mija